清水空と申します。
本名は清水聡ですが隠しているわけではありません。
会社員の頃から使っていたビジネスネームで愛着があり、現在でも”清水空”を使用しています。
自己紹介代わりに私のこれまでの歩みを書かせて頂きます。
ご興味があれば、どうぞご覧ください。
子どもの頃
1974年に群馬県の高崎市で生まれました。
群馬県の中ではやや都会の高崎・前橋ですが、育った家は超がつくような田舎にありました。最寄りの駅から大人の足で1時間。
バスは2時間に1本。
家のまわりは隣町まで水田と畑が広がっているようなのどかな景観。村の半数近くの家が同じ苗字というような親戚だらけの人間関係。
核家族とは程遠い6人家族(両親・祖父母・妹)。こういう環境ですくすくと育って、大学進学の際に上京。
初めての引っ越しを体験しつつ、一人暮らしをスタート。【実家近くの景観】
就職と副業
今は、セラピストという肩書がメインとなっていますが、実際にはたくさんの職種を渡り歩いています。
学生時代にメンタルヘルスを学んだ後に、すぐに心理職の仕事に就けたかというとそんなことはありません。
できればフリーランスとして働きたかったのですが、この当時、起業するための知識が皆無。ぎこちない就職活動を経て、最初は都内の一般企業に就職。
いわゆる普通の社会人生活をスタートしたのでした。「え?! 会社員だったことがあるんですか?」と言われることが多いのですが、これでも会社員の経験があります。
ただし、会社員としての感覚が少々鈍く、「副業禁止規定」という一般常識が欠如していました。
平気で副業をしているような会社員で、休日のアルバイト、物販、パソコンのインストラクター。あまり将来のことをまじめに考えていなかったのでしょうね。
興味のある仕事と思ったら、ふらふらっと副業にしていたのですから。ところが、私以上にふらついてしまったのが、本業で勤めている会社でした。
社会人になってすぐに勤めていた会社がバベルの塔のように倒産してしまったのです。
勤務先の倒産
勤務先が倒産・・・
それも仕方のないことだったかもしれません。なにしろ、この頃の社会情勢は不況一色。
拓銀、長銀、日債銀、三洋証券、そして山一證券などの大手金融機関が次々と倒産してしまうような時代だったのですから。【不況のど真ん中】
勤務先の倒産の後、かつての同僚達はわりと上手に転職できているようでした。
一方、私は「よし、今度こそ独立だ!」と一念発起するものの、あえなく挫折・・・
まだまだ起業する力はこの時の私にはなかったのでした。収入のない状態で一人暮らしを東京で送るゆとりはありませんでした。
が、ドン底のときほど手を差し伸べてくれる女神が現れるものです。
人生初の縁談を二件頂いたのです。ですが、二件とも
「捨て犬を放っておけないわ。お家に連れていって飼ってあげる」
というような雰囲気のオファーでしたので、お断りせざるをえませんでした。私は再び群馬の実家に戻ることにしました。
失業生活
想像以上に長引いた失業生活は約1年間も続きました。
20代の若者が一年間、実家で無職生活となると世間体はあまりよろしくないのですが、まあまあ楽しくしていたと思います。
借金でも現金があると元気は維持できるようです。また、この失業生活の2年後に亡くなる祖父と共に過ごせた最後の楽しい時間にもなったので、不思議と良いタイミングでの実家生活だったと今になって思えます。
家族と過ごせた時間とは逆に、再就職活動はまったく思うように進みませんでした。
最初の就職活動がいかにラクだったか、嫌というほど味わいました。
書類選考で落ちる、どころかそもそも応募条件を満たせない求人情報がほとんどだったのです。
応募すらできない・・・そんな中、奇跡的に採用して頂ける会社に巡り会えました。
あとでわかったのですが、たまたま会社のエラい方と同じ苗字で落としにくかったそうです。
ありふれた苗字でよかったですよ。
再就職
再就職先は東京都内。
群馬を離れて浦和に引っ越し。
行ったり来たりですが、金融システムのプログラマとして採用されました。
未経験でも可能という求人でしたが、中途採用の同期約10人は多少なりとも経験者。
本当に未経験だったのはおそらく私だけと記憶しています。プログラマ・・・
ますます心理職の仕事から離れていきますが、限られた求人情報の中で採用して頂けたのですから、喜びのほうが大きかったものです。実際に働きだしてみるとたくさんの刺激があり、楽しかった想い出が今でもよみがえってきます。
また、貴重な経験になったのが、当時のシステム開発者の労働環境。
残業100時間を越える月も珍しくありませんでした。私自身は好きになれる仕事でしたので、ストレスは少ないほうだったでしょう。
ですが、私のまわりではメンタルヘルスの不調があらわれる人達が決して少ないとは言えませんでした。「やっぱり、いつかは心理職に就きたいな・・・」
そんな気持ちが再び少しずつ高まっていきました。そして20代の終わりが近づいた頃、激務のサラリーマン生活が少し落ち着きを見せ始めてきたのでした。
【この頃、みずほ銀行誕生】
忙しさから開放されると、
以前のようにまた副業欲がムクムクと頭をもたげてきました。ただ、今回の副業欲は以前と少し違っていました。
それまではアルバイトのような「副業」が多かったのですが、
この頃から自分でビジネスを立ち上げる「複業」に少しずつ切り替えていったのです。
複業と起業
さて、アルバイトから起業となる際に大事なことがあります。
①自分がやってみたい仕事
②他人から求められている仕事この2つが一致したら最高ですが、なかなか最初からうまくマッチすることはありません。
そこで、私が採った方法は・・・
【続き】
この続きはまた少しずつ更新します。
次回は2003年にハワイで会社を設立する頃までのお話しを書く予定です。【オアフ島のこのビルからスタート】